ビールの隣で、犬が眠っている。── イギリスのパブが200年かけて完成させた『公共空間』のかたち

ロンドン中心部のパブを夕方に覗くと、必ずと言っていいほど、誰かの足元で犬が静かに寝ています。テーブルにはエール、足元にはラブラドール。会話のあいだに、ときどきしっぽが床を叩く音がする。それが、ごく日常の風景です。
今回はイギリスの「パブと犬」の文化を、最新の数字と200年の歴史から紐解いてみます。日本で「うちのお店もペット同伴OKにしようかな」と考える事業者、「うちの子と一杯飲みに行きたい」と思う飼い主に、ヒントを届けられたら嬉しいです。

■ パブは「犬にとっての第二のリビング」

イギリスでは犬の飼育頭数が約1,110万頭(PDSA PAW Report 2025)から1,350万頭(UK Pet Food)と推計されており、約36%の世帯が犬と暮らしています。日本の飼育頭数約680万頭、世帯飼育率約9%(一般社団法人ペットフード協会調べ)と比べると、数字の桁が違うのが分かります。
そしてこの国の犬は、当たり前のように外出に同伴します。バス、地下鉄、長距離列車、本屋、デパート、そしてパブ。とくにパブは「ローカルの第二のリビング」とも呼ばれ、犬連れで一杯やる光景は、もはや街の文化的アイコンといってもいいでしょう。

■ 数字で見る、イギリスのパブ × 犬

ペットケア事業者Roverなどの調査によると、犬同伴OKに切り替えたパブの98%が「売上が増えた」と回答しています。
さらにパブ・マネージャーの79%が「犬がいることで店の雰囲気がよくなる」、82%が「犬を介して客同士の会話が生まれる」と答えています。
犬は「店の妨げ」どころか、「コミュニティの導線」として位置づけられているのです。
イギリスの大手パブチェーン Greene King は、明確に「犬OK」を打ち出しており、リード着用などの条件付きで店内同伴を認めています。ホテル併設店では、1泊あたり10ポンドの追加料金で犬の宿泊も可能です。

■ 200年前にRSPCAを生んだ国の土壌

この「当たり前」は、突然できあがったものではありません。
イギリスでは1824年に世界初の動物福祉団体 RSPCA(王立動物虐待防止協会)が設立されました。その後200年以上にわたって動物関連の法令は70以上整備され、動物を「物」ではなく「感じる存在(sentient being)」として制度に位置づけてきた歴史があります。
直近では、2022年に施行された Animal Welfare (Sentience) Act によって、脊椎動物の感受性が法律上明示的に認められました。19世紀の段階で「動物に苦痛を与えてはならない」という規範が立法化され、それが200年かけて現在の動物福祉制度に磨かれてきたわけです。
パブのスタッフが当然のように犬用の水入れを運んでくるあの風景は、その200年の積み重ねの上に成り立っています。言い換えれば、パブの足元の犬は、いきなりそこにいるのではなく、社会の合意の結果としてそこに眠っている、ということになります。

そして犬を受け入れる公共空間は、パブだけにとどまりません。ロンドンの地下鉄やバスは原則として犬同伴OK(リード着用、エスカレーターでは抱っこ)。ヒースロー空港にはペット用のリラクゼーションエリアが整備され、長距離移動の前後にも犬がストレスを下げられるよう設計されています。「街の動線そのものが、犬と一緒に動けるように作られている」と言ってもいいかもしれません。

■ ただし、全部がOKではない

一方で、興味深いデータもあります。イギリス国内の調査では、犬の飼い主の14%が「犬連れを理由にパブから退出を求められた経験がある」と答えています。
実際、英国最大級のチェーン Wetherspoons は2018年9月、補助犬を除く全店舗での犬の入店を全面禁止としました。理由は「行儀のよい犬でも予測不可能な行動を取りうる」「子どもが怖がる」「フンの処理が追いつかない」というもの。
つまり、イギリスでも「すべての店で犬OK」ではなく、店舗ごとの判断に委ねられ、ルールは今も更新され続けています。だからこそ、地元の人たちが信頼できる「マイ・パブ」を持つ文化が育つのかもしれません。

■ 日本との違い ── 「公共」の定義が違う

日本で犬同伴できる飲食店は、いまも全体のごく一部です。「飲食店に犬を連れていく」という選択肢自体が、ほとんどの飼い主の選択肢に入っていないのが現状ではないでしょうか。
これは「日本が遅れている」というより、公共空間の設計思想が違う、と考えています。
日本のレストランは「不特定多数の客にとってのフラットで衛生的な空間」として育ってきました。一方、イギリスのパブは「ローカルが知人と、犬と、ゆっくり過ごすリビングの延長」として育ってきました。前提が違えば、犬を連れて入っていいかどうかも、自然に変わってきます。

■ 私たちが日本でできること

ソプラ銀座が考えているのは、「いきなり全飲食店にペット可を求める」ことではありません。
たとえば、犬連れで安心して立ち寄れるカフェやバーが、街に1軒、2軒と増えていくこと。「うちの子もウェルカム」と書かれたボードが、当たり前の風景になっていくこと。その小さな積み重ねが、いつか街そのものの前提を変えていくのだと思っています。
そしてそのとき、飼い主側の準備も同じくらい大切になります。マナー、社会化、健康管理。「連れていける環境」は、お店側の覚悟だけでなく、犬と飼い主の日々の信頼の積み重ねの上にしか成り立ちません。
イギリスのパブが200年かけて獲得したのは、「犬を入れていい店のリスト」ではなく、「犬と人とお店の三者が、お互いを尊重し合うための作法」だったのではないでしょうか。
私たちが日々取り組んでいる犬の幼稚園や教育事業は、その「連れていける犬を育てる」ための、ちいさな入口でありたいと考えています。同時に、業界事業者や行政の方々と「日本ならではの公共空間の作法」を一緒に育てていけたら、と願っています。

パブの足元で眠るラブラドールは、200年の制度と、毎日のマナーと、店主の覚悟と、社会全体の合意のうえで眠っています。
いつかの夕方、日本のどこかの街角で「今日は、うちの子と一杯飲みに行こうか」と言える日が、少しずつでも増えていったらいい。
私たちはそんな未来を信じて、今日もお店に、犬を迎え入れています。

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